倉木麻衣の歌詞に否定的な人は多い。彼女の歌詞は稚拙で奇麗事ばかりだという。本当にそうなのか。いいや、倉木麻衣の歌詞は、楽観主義に生きる力強い人生観に裏づけされた、深く味わいのあるものなのだ!ということを書き綴っていくブログです。
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自分の所属している研究室では色恋抜きなところだと思ってたんだ。
そう、「恋愛?何それ、美味いの?」みたいな。
それでこそ理系だろう!!(←たぶん違う)
ああ、でもあんなことやそんなことが鈍い私の周りで起こってたのね。ちょっとショックだった。
私はここらへんずーっと、恋愛云々に食指が動かないから、そんな動きを察知するようなセンサーも働かないのだ。
自分ってやっぱりちと変なのかな、と自分の恋愛観について考えてみた。
そして、ピンときたのです!

めったにどこかに遊びにいくわけでもない。つまり、デートはろくにしない。たまに一緒にスポーツに興じるぐらい。
イチャイチャすることもあまりない。
だけど、コミュニケーションはよくとっている。
本や社会問題について激しく議論したり、お互いの理想や希望を深夜までも語りあったりする。
そして、互いの仕事にも興味を持ち、例えば「流体力学(←思いつきでかいた)って今こういうことが課題なんだよね」とか言ったりすると、聞いた方が「へぇー、そうなんだ~」だけじゃなくて、自分でも勉強したくなってしまい、助言できるまでになっちゃうような・・・。
そんな関係で若い頃はいるんだけど、年老いてくるにしたがって逆にラブラブになってきて仲睦まじく死んでいきたいな・・・。

うん、自分で書いててよく分かんなくなってきました。とりあえず、今は恋愛とかいいや~。
そういえば、倉木さんの2ndアルバムは恋愛描写がほとんどないところにまずぐっときたんだよな~。あの年頃の女性が書く歌詞としては、かなり稀有な例のはず。

ところで、倉木さんのニューアルバムについてですが、『DIAMOND WAVE』以上、『One Life』未満といったところでしょうか。
歌詞の変化はおおいに歓迎しています。もっとたがを外しちゃっていいと思う。
マイケル・アフリックさん、「Catch」「Top of the world」のコーラス、かっこよすぎ。惚れてまうわ~(///∇//)。
ちょっと不満なのは、歌謡曲っぽい曲が多く、新鮮味にかけたところ。Free-role Jさんのアレンジはちょっとベタすぎるような気が・・・。あと、「You and music and Dream」での池田大介さんのオーケストラアレンジは蛇足だと思う。Cybersoundの編曲で完璧だったから、ちょっと鳴ってる音が多すぎてうるさく感じました。
でも、基本的には満足してます。
今日は簡単にここまで。
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本日、CDTVのALBUMライブラリーで、2004年1月のアルバム月間ランキングが紹介されました。
その1位は倉木麻衣『Wish You The Best』。
倉木麻衣としては最後のオリコン週間1位獲得アルバム。

今週発売された、倉木さんの新作アルバム『touch Me!』がオリコン週間1位にほぼ当確しているなか、CDTVも粋なことをしてくれます。
まぁ、Beingがスポンサーだもんねぇ(^^;)。
無価値な殴り書き・・・
「ある日、便所にこう落書きされていた」というタイトルを付けていましたが、変更しました。それなりに意味はあったのですが、ちょっと恥ずかしくイタかったので。


懐疑と真正面から戦うことに決めた。
私はこの戦いに絶対に勝ってみせる。
周りが馬鹿にしようとも、呆れようとも。

「理屈じゃない」という言葉は嫌いだ。
確かに理屈で説明できないことはある。
しかし、ほとんどの場合、理屈になるだけの思索をしていないだけだ。
どれも答えが厳然あった。理屈があった。
なのに、皆ごまかすばかりだ。
理路整然と語る人、理路整然と語れないことを恥じる人。
どちらもほとんどお目にかからない。

懐疑の先に、私の厳然たる理屈を構築してみせる。
私は真実が知りたい。
「真実自体に価値はない」
そうだ。それは真理だ。
では、真実を求めることに価値はないのか。
知る価値のある真実と、知る価値のない真実があるのか。
それは誰が決めるのか。
真実を求めないところに歪曲が蔓延ると私は思っている。
それは間違いか。
何の意味があるの沢山の噂話に」(倉木麻衣「Break the Tone」)
何が真実か、本当に信用していいのか、それを自分で吟味しない輩が作り出すのが噂だ。
中国の文豪巴金曰く、「はっきり言えることが一つある。それは、多くの人々が確固として自立した思想を持ち、唯々諾々と従うことをせず、真実を語り、真実を信じるならば、一切の醜悪、虚偽はおおいに減っていくであろうということだ

私の最も好きな哲学書、三木清『人生論ノート』より。
「あらゆる神秘を払いのけることが懐疑の仕事である」
「懐疑は知性の一つの徳であり得る」
「懐疑は知性の徳として人間精神を浄化する」
「真の懐疑家はソフィストではなくてソクラテスであった。ソクラテスは懐疑が無限の探究に他ならぬことを示した」
「論理によって懐疑が出てくるのでなく、懐疑から論理が求められてくるのである」
「他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に滲透(しんとう)する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている。少なくとも、そうでないような宗教家は思想家とはいわれないであろう」
「精神の習慣性を破るものが懐疑である」

しかし、心すべきことは、
「節度を知らないような懐疑は真の懐疑ではないだろう。度を越えた懐疑は純粋に懐疑に止まっているのでなく、一つの哲学説としての懐疑論になっているか、それとも懐疑の神秘化、宗教家に陥っているのである。そのいずれももはや懐疑ではなく、一つの独断である」
「純粋に懐疑に止まることは困難である。ひとが懐疑し始めるや否や、情念が彼を捕らえるために待っている。だから真の懐疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懐疑は絶えず感傷に伴われ、感傷に変わってゆく」


感傷に襲われた私は、懐疑が不信となっていた。
それは懐疑との戦いの敗北を意味する。
しかし、私にはとっておきの良薬がある。
「信」を詠い続ける彼女の歌を聴きながら、私は思う。
きっとこれもありだね」(倉木麻衣「Catch」)
OHHOさんのブログ記事に触発されて、5ヶ月ぶりに歌詞考察を書いてみる。
「感謝ソング」はもういらない。http://blog.livedoor.jp/ohho_nikki/archives/51230708.html
これを読んで、半分そうだ!と納得し、半分そうかな?と思った。
[第30回「You and Music and Dream(2)~ありがとうの使い方~」]の続きを読む
だって倉木さんと握手したんだもの。大宮で。
めっちゃ、吃ったよ。かっこわる・・・。
これが通算して3回目の握手だ。1回目のときはかなり感慨深かった。で、手にビニール袋を被せて風呂に入ったもんだな。もちろん、手を洗いたくなかったから。今はもうそんなことはしない、過去の話。

大宮まで行ったのは握手というよりもサイン目的だった。倉木さんのサインは、一つも持ってないから。
あと、ファンレターを直接渡したかった。その願いは叶わなかったんだけれど。倉木さんに達するまでに回収されちゃった。

どうでもいいんだけど、大宮で晩御飯を食べに行ったときに、お品書きの「おつまみ」が「おっぱい」に見えた。「お」しか合ってないやん。
一週間前くらいには、電車の中刷り広告に「温浴」とあるのを「混浴」と見間違えた。一瞬喜んだ俺は馬鹿だ。こんなんだから、コメント欄がエロサイトのリンクで溢れてしまうんだろう。

卒論の執筆が今山場だ。本来なら、握手会に行くなんて言語道断なんだけど、いいじゃないか。倉木麻衣10周年を迎える年、こんな機会はもうないかもしれないぞ。
ということで、ブログを書く暇がなかなか取れないのです。去年は去年で就活に集中しました。年末にギリギリ内定をとることができ、ホッとはしています。

私の今のテーマは、「誠実」。しかし、ブログは不誠実極まりないです。うん、分かってはいるんだけど、どこか抜くところは必要じゃないか?と、気ままに放置してます。
もう少し、卒論で忙しいので、やっぱり更新はほとんどできないと思うし、いっそのことブログ自体閉じたほうが潔いのかもしれないけど、でもやっぱり勿体無いじゃん。昔の記事を読むと、悪い意味で「若いなあ」と思うけど、なんか不器用に一生懸命書いてる感じはして残しておきたいんですよね。だいぶ過去の記事の拍手ボタンが押されてると、なんだか嬉しいし(恥)。

ということで、とりあえず、明けましておめでとうございます。
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