倉木麻衣の歌詞に否定的な人は多い。彼女の歌詞は稚拙で奇麗事ばかりだという。本当にそうなのか。いいや、倉木麻衣の歌詞は、楽観主義に生きる力強い人生観に裏づけされた、深く味わいのあるものなのだ!ということを書き綴っていくブログです。
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『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他4篇』(中村白葉訳、岩波文庫)を読んだ。
この本は、レフ・トルストイが民話・伝説を題材にして創作した物語を5篇(「人はなんで生きるか」「火を粗末にすると消せなくなる」「愛のあるところに神あり」「ろうそく」「二老人」)集めたもの。

以下、読後の所感などのメモ書き。
人はなんで生きるか

人もし『われは神を愛す』と言いて、その兄弟を憎まば、これ偽者なり。すでに見るところの兄弟を愛せぬ者は、未だ見ぬ神を愛すること能わず(ヨハネの第一の書、第三章第二十節)(p.6)


人間の姿で地に堕ちた天使が、周りの人との触れ合いにより、「人間の中にあるものは何か」「人間に与えられていないものは何か」「人間はなんで生きるか」を学ぶ、そういった話である。

「人間の中にあるものは何か」=愛
「人間に与えられていないものは何か」=自分の肉体のためになくてはならぬものものを知ること

この2つは明記されており、容易に理解できた。
だが、「人間はなんで生きるか」の回答が腑に落ちなかった。しばらく考えて理解した。人間はなんのために生きるか、ではなく、人間はなにによって生きることができるか、という命題を表しているのだろう。まぎらわしい題名だ。
もしかしたら、人間はなんのために生きるか、も読み取って欲しいのかもしれないが、私にそれは感じ取れなかった。
さて、人間はなにによって生きることができるか、というと、それは「愛によって生きている」のだという。

すべての人は、彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって、生きていっているのです。(p.52)


だから、他者に愛を向けよう、ということが言いたいのだろうか。確かに、「人々の心に愛があることによって、生きて」いくことができていることは間違いない。それを自覚して生きていくことは、大事なことだろう。ただ、このような話はもともと善性の強い人にしか訴えかけないのではないか、という念も抱いた。

冒頭の聖書の一節は、キリスト教の博愛の一端が理解できる、名句。


火を粗末にすると――消せなくなる

憎しみの連鎖を戒める話だった。やられたからといってやりかえすならば、こんな悲惨なことになる――その教訓として、自戒させるものがある。
ただ、最後にめでたく当事者が和解して終わるが、大火事を起こして関係ない人にまで被害を与えた罪はどう清算する気なのだろうという疑問は残った。(喧嘩の末、放火までした男は、目撃者の喧嘩相手に許され何の罰も受けずにすんだ)

章の冒頭の聖書の話は、深く考えさせる。長すぎるが引用したい。

ここにペテロ御許に来たりて言う『主よ、わが兄弟われに対して罪を犯さば幾たび赦すべきか、七度までか』イエス言いたもう『否われ「七度まで」とは言わず「七度を七十倍するまで」というなり。この故に天国はその家来どもと計算をなさんとする王のごとし。
計算を始めしとき一万タラントの負債(おいめ)ある家来つれ来たられしが、償い方なかりしば、その主人、この者と、この妻子と凡ての所有(もろもろ)とを売りて償うことを命じたるに、その家来ひれ伏し、拝して言う「寛(ゆる)くし給え、さらばことごとく償わん」その家来の主人、あわれみてこれを解き、その負債を免(ゆる)したり。
しかるにその家来いでて、己より百デナリを負いたる一人の同僚にあいこれをとらえ、喉を締めて言う「負債を償え」その同僚ひれ伏し、願いて「寛(ゆる)くし給え、さらば償わん」と言えど、肯わずして往き、その負債を償うまでこれを獄に入れたり。
同僚ども有りし事を見て甚く悲しみ、往きて有りし凡てのことをその主人に告ぐ。ここに主人かれを呼び出して言う「悪しき家来よ、なんじ願いしによりて、かの負債をことごとく免せり。わが汝を憫みしごとく汝もまた同僚を憫むべきにあらずや」斯くその主人、怒りて、負債をことごとく償うまで彼を獄卒に付(わた)せり。
もし汝らおのおの心より兄弟を赦さずば、わが天の父もまたなんじらに斯のごとく為し給うべし』(マタイ伝第十八章第二十一節―第三十五節)(p.56)


私自身は神から赦されているといった思想は全くもっていないが、自分が人を非難したり罰したりできるだけの人間であるか常に自問すべきであると思うし、いかに周りの人から許されているのか思いを致すことも大事だと思っている。
ふと、いじめ問題が頭に浮かんだ。「いじめられる側にも問題がある」と主張する人が思いの外多いが、そういう人こそ読んで欲しい文章だ。自分がどれほど問題のない人間だといえるのか。「いじめられる側にも問題がある」というのは、自らをいじめてもいいといっているのと一緒だ。


愛のあるところに神あり

「汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者のひとりになしたるは、すなわちわれになしたるなり」(マタイ伝第二十五章)(p.113)


他者に行為をなせば、それは神にたいしてなしているということだ、という言葉。
博愛の思想的な深みを知るとともに、その行為が小さき者への純然たる想いに帰せないことに違和感も覚えた。


ろうそく

「目には目を、歯には歯を」と言えることあるを汝ら聞けり。されどわれ汝らに告ぐ――悪しき者に抵抗(あらが)うな。(マタイ伝第五章第三十八節、三十九節)(p.116)


右の頬を打たれたら云々をはじめとした、キリスト教のこうした考え方は嫌いだ。(キリスト教にもいろいろあるだろうけど)
こんなの「悪しき者」が喜ぶだけだろう。「目には目を、歯には歯を」を否定しても抵抗しないわけではない。ガンジーのような非暴力の抵抗こそ正しいあり方だと思う。
横暴な領地の管理人が百姓を苛め抜くが、あるとき、それでも悪口一つ吐かずに平然と耕作に励む一人の男に話を耳にし、その管理人は一変。日に日に憂鬱に沈み、しまいには全身虱だらけになって死ぬ――そんな話なわけだが、なぜそうなる?全く意味が分からない。


二老人

彼は、おの世では神がすべての人に、死の刹那まで、愛と善行とをもってその年貢を果たすように命ぜられたのであることを、さとったのだった。(p.178)


聖地を巡礼するより、善行を積むことの方が神の意にかなっている、という話。
あまねく宗教・信仰者に対しての戒めとなっている作品だと思う。
トルストイはこのような作品をもって形式主義に堕した教会と戦った。

トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇 (岩波文庫)
(1965/01)
トルストイ

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コメント
この記事へのコメント
こんにちは、興味深く読ませていただきました。聖書は、高校の時に学校で貰いました。
それで、ずいぶん辛いときとかに読んでいました。ある意味人類の宝?かもしれません…
2008/07/20(日) 13:51 | URL | hide574 #-[ 編集]
>hide574さん

はじめましてですね。コメントありがとうございます。

なんだかんだいって聖書そのものを手にとったことはない私ですので、その価値を測る資格はありません。ただ、聖書が先哲が残した偉大な書物であることは間違いのではないかと思っています。
2008/07/21(月) 17:46 | URL | SaySay #-[ 編集]
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