倉木麻衣の歌詞に否定的な人は多い。彼女の歌詞は稚拙で奇麗事ばかりだという。本当にそうなのか。いいや、倉木麻衣の歌詞は、楽観主義に生きる力強い人生観に裏づけされた、深く味わいのあるものなのだ!ということを書き綴っていくブログです。
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無価値な殴り書き・・・
「ある日、便所にこう落書きされていた」というタイトルを付けていましたが、変更しました。それなりに意味はあったのですが、ちょっと恥ずかしくイタかったので。


懐疑と真正面から戦うことに決めた。
私はこの戦いに絶対に勝ってみせる。
周りが馬鹿にしようとも、呆れようとも。

「理屈じゃない」という言葉は嫌いだ。
確かに理屈で説明できないことはある。
しかし、ほとんどの場合、理屈になるだけの思索をしていないだけだ。
どれも答えが厳然あった。理屈があった。
なのに、皆ごまかすばかりだ。
理路整然と語る人、理路整然と語れないことを恥じる人。
どちらもほとんどお目にかからない。

懐疑の先に、私の厳然たる理屈を構築してみせる。
私は真実が知りたい。
「真実自体に価値はない」
そうだ。それは真理だ。
では、真実を求めることに価値はないのか。
知る価値のある真実と、知る価値のない真実があるのか。
それは誰が決めるのか。
真実を求めないところに歪曲が蔓延ると私は思っている。
それは間違いか。
何の意味があるの沢山の噂話に」(倉木麻衣「Break the Tone」)
何が真実か、本当に信用していいのか、それを自分で吟味しない輩が作り出すのが噂だ。
中国の文豪巴金曰く、「はっきり言えることが一つある。それは、多くの人々が確固として自立した思想を持ち、唯々諾々と従うことをせず、真実を語り、真実を信じるならば、一切の醜悪、虚偽はおおいに減っていくであろうということだ

私の最も好きな哲学書、三木清『人生論ノート』より。
「あらゆる神秘を払いのけることが懐疑の仕事である」
「懐疑は知性の一つの徳であり得る」
「懐疑は知性の徳として人間精神を浄化する」
「真の懐疑家はソフィストではなくてソクラテスであった。ソクラテスは懐疑が無限の探究に他ならぬことを示した」
「論理によって懐疑が出てくるのでなく、懐疑から論理が求められてくるのである」
「他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に滲透(しんとう)する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている。少なくとも、そうでないような宗教家は思想家とはいわれないであろう」
「精神の習慣性を破るものが懐疑である」

しかし、心すべきことは、
「節度を知らないような懐疑は真の懐疑ではないだろう。度を越えた懐疑は純粋に懐疑に止まっているのでなく、一つの哲学説としての懐疑論になっているか、それとも懐疑の神秘化、宗教家に陥っているのである。そのいずれももはや懐疑ではなく、一つの独断である」
「純粋に懐疑に止まることは困難である。ひとが懐疑し始めるや否や、情念が彼を捕らえるために待っている。だから真の懐疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懐疑は絶えず感傷に伴われ、感傷に変わってゆく」


感傷に襲われた私は、懐疑が不信となっていた。
それは懐疑との戦いの敗北を意味する。
しかし、私にはとっておきの良薬がある。
「信」を詠い続ける彼女の歌を聴きながら、私は思う。
きっとこれもありだね」(倉木麻衣「Catch」)
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